フランスの詩人アンドレ・ブルトンがニューヨークに住んでいたとき、いつも通る街角に黒メガネの物乞いがいて、首に下げた札には
私は目が見えません
と書いてありました。彼の前には施し用のアルミのお椀が置いてあるのですが、通行人はみんな素通り、お椀にコインはいつもほとんど入っていません。ある日、ブルトンはその下げ札の言葉を変えてみたらどうか、と話しかけました。物乞いは「旦那のご随意に」。ブルトンは新しい言葉を書きました。
それからというもの、お椀にコインの雨が降りそそぎ、通行人たちは同情の言葉をかけていくようになりました。物乞いにもコインの音や優しい声が聞こえます。数日後、物乞いは「旦那、なんと書いてくださったのですか」。
下げ札にはこう書いてあったそうです。
春はまもなくやってきます。
でも、私はそれを見ることができません。
誰が見てもうらぶれた物乞いです。黒メガネをかけているのだから盲人であることも分かります。「私は目が見えません」は言葉の意味をなしていないのです。
アンドレ・ブルトンの言葉のほうには、訴えるものがあり、憐れみを乞う力があり、人に行動を促す力、もっとえげつなく言えば集金能力がありました。目的はそれだったのです。読んでもらって、施しの気持ちを起こさせ、施しをいただくこと。
目的を果たしてこそ、言葉です。
最も言いたいことは、 最も言いたくないことのそばにあると私は思う。
だから、表現というものは 恥ずかしさを伴うものだ。
そこで血を流して、持ち出すか、持ち出さないか。
持ち出してみて、 たとえうまく伝わらなかったとしても、 そのことで、あとで、恥ずかしさにヒリヒリしても、 私は、持ち出して、伝えてみる価値はあると思う。
たとえ、相手に「?」で、 わかってもらえなかったとしても、 「いま、この人は、そうとうの恥ずかしさをおして、 覚悟をもって、それを言ったな」ということは、 なぜか伝わっている。
– ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。 (via tessar) (via tetris) (via theemitter) Via the Emitter1.「商売の根本は正直にあることを日本人は教えてくれた」
日本の商社がアラブ商人と取引を始めて数十年経つが、始めの頃は、
アラブ人は「日本人ほど騙しやすい連中はない」と見てきた。
同じ手口で三井・三菱・住友と3回騙せるというのである。
ところが、しばらくすると日本の商社同士で「あいつは危ない、気をつけろ」と
教え合うようになり、「札付き」という噂が立つと
日本のすべての会社がその人を相手にしなくなった。
長い時間が経ってみると、正直なアラブ商人は日本企業相手の取引を続けて
金持ちになり、従来の騙し合いの商売を続けてきた人は、
今もアメリカやフランス相手の食うか食われるかの商売をしているという。
あるアラブ商人は「商売の根本は正直にあることを日本人は教えてくれた」と述懐する。
そんなことを日本人はわざわざお説教したりはしないが、
取引をするかしないか、という行動で、何よりも雄弁に語ったのである。
テレビも含めてマスコミは今、守りに入ってきている。問題を起こすのを避ける空気が強くなっている。クレームが来るのを、嫌がっている。
しかも最近は、まともに突っ込むと批判が多くなる。何となくいやな時代だなと感じる。
– 『民主圧勝、自民激減』報道の裏で 置き忘れられたもの | 時評コラム | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉



